すべての利用者がインターネットを通じて他者を救済する世界たれ

 

1    インターネットで出会った故人

私は「インターネット上で故人のブログが閲覧できる」ということを知り、廃墟サイトまとめを閲覧していた。なお2020年現在、「廃墟サイト」という表現は一般的ではなく「故人サイト」という呼称の方が定着しているように思われる。

そもそも一体なぜ私が故人のブログに興味を持ったのかということについて述べたいと思う。私は中学生の頃、図書館で南条あやの『卒業式まで死にません』という本を借りた。当時の私はリストカットアームカットを常習的に行っていた。そのような自傷行為がきっかけで南条あやの本に辿り着いたと記憶している。

その本には、南条あやという人物について、また彼女がインターネット上に残したものについて書かれていた。

「死んだらインターネットで公開したものが残り、さらには書籍化されるパターンもあるらしい」

衝撃だった。

南条あやは、生存した証をインターネット上に残して死んだ。いや、「生存した証がインターネット上に残ってしまった」と言い表した方が正しいのかもしれない。

さて話を戻すと、インターネット上で閲覧できる故人のブログというのが、二階堂奥歯の「八本脚の蝶」という日記サイトだ。利用されていたのは「@niftyホームページサービス」であったようだ。このサービス名から推測できるように、当時はまだ世の中に気軽に開設可能なブログサービスは広まっていなかったのかもしれない。なお現在は同サービス提供終了に伴い、二階堂奥歯による個人サイトの複製版を閲覧することができる(2020年2月16日閲覧)。

二階堂奥歯もまた、南条あやと同じように生存した証をインターネット上に残して死んだ。特筆しておくべき点が、二階堂奥歯南条あやと異なり「自らの意志で生存した証をインターネット上に残して自殺した」という点である。

 

私は、南条あや二階堂奥歯もインターネット上でリアルタイムにて追うことができなかった。そのことについてなぜか「残念だ」と感じてしまうの自分自身の気持ちが不思議に思えた。

インターネットを眺めていると、ブログサービスの代りにSNSが流行し始めた。私はSNSの中でも特にTwitterが気に入って利用を続けている。Twitterでは主にメンタルヘルスについて発信しているクラスタを好んで見ていた。そのうちそのクラスタ内のあるアカウントについて、「どうやらあのアカウントの持ち主は自殺したようだ」と囁かれている場面に何度か遭遇するようになった。

このような場面を目撃して私は、非常にモラルの欠けた発言になるのだが「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と感じるようになっていた。

 

さて、二階堂奥歯『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化され河出書房新社より発売された。文庫化されるという情報を得た時点で既に私は、自分の心の中で妙にひっかかるものを感じていた。

そこで2006年にポプラ社より発売された単行本形式の『八本脚の蝶』を確認してみようと思い立った。こちらはポプラ社の在庫状況が品切れらしいが、幸いなことに私のよく利用する公立図書館の開架に並んでいた。

単行本版『八本脚の蝶』を手にしてまず感じることは、「黒くて分厚い」ということだ。表紙には押し花のような写真がプリントされているが、これはおそらく蝶。まるで割り箸に銀のインクを付けて書いたようなフォントで、「八本脚の蝶」と題されている。

二階堂奥歯」という筆名についてあらためてその名前を頭の中で唱えると、自分自身の奥歯のあたりも、なんだかむず痒くなるような、柔らかいものを噛んでいるような、不思議な感覚を覚えた。

単行本版『八本脚の蝶』は、本編として二階堂奥歯の日記サイトからの再録、特別収録として彼女が生前近しかった人物からの書き下ろしコラム、そしてかつて幻想文学という雑誌に掲載されたという二階堂奥歯によるブックレビューによって構成されている。

ここからは本編の日記を読んで感じたことを述べていこうと思う。

 

2    彼女の日記と私の記憶

その日記は2001年6月13日水曜日から始まっている。その日二階堂奥歯は、取り置きしていた本を書店に取りに行ったと記している。

私はいつの間にか、2001年当時自分が何をしていたかということについて思いを馳せていた。2001年6月13日水曜日、私は小学6年生だった。私は6年生のゴールデンウィークに旅行先で体調を崩し、風邪をこじらせてしまい入院した。自宅で寝ていると熱がぐんぐん上がり、布団に包まっても寒くて寒くてたまらなかった。後になって改めて親とその話をしていると、どうやら熱性けいれんを起こしていたらしい。

ところで北海道の運動会は春に行われる。私は運動会当日までに退院することができた。当時の担任の先生が「持久走どうする?」と確認してきたので、私は「徒競走だけ出ます」と答えた。グラウンド5周の1キロなんて走りたくなかったのである。

私にとってそんな小学校最後の運動会が終わり、初夏なのか蝦夷梅雨(北海道にも一応梅雨のような時期が一瞬だけ存在する)なのかわからない曖昧な気候の中で、小学校生活を送っていた。おそらくそれが、私の2001年6月13日水曜日だったのではないかと思う。

 

2002年4月8日、月曜日。おそらくこの日に私は中学1年生になった。中学校に進学したといっても、私が通っていたのは小中併置校だった。わかりやすく説明すると、小学生の教室が校舎の2階にあって、中学生の教室が3階にあるということだ。つまり中学生になると階段を上る段数が増えるだけのことである。

私は新学期の校舎の何とも言えないにおいに敏感な子どもだったので覚えているが、小学生のフロアと中学生のフロアとでは、においが異なっていた。中学生の階の廊下や教室は、やはり中学生らしい大人っぽいとでも言ったらいいのか、とにかく少し変なにおいがしたのを覚えている。

4月も8日頃となると、多くの会社にとっては新年度の区切りを迎えてから数日経過したというところで、まだ新しい環境には慣れていないという時期ではないだろうか。

2002年4月8日の月曜日、二階堂奥歯にとってのこの日は、ある本に引用されていた詩を見つけることができた日ということになっている。どうしても読みたくて探していたのだという。彼女にとってのちょっとした記念日であるように感じられる。

 

2002年の3月末~4月初旬の彼女の日記を確認してみると、すっぽりと更新されていない空白の期間になっていることがわかった。年度末から年度初めは、やはり忙しかったのだろう。

彼女は文学部哲学科を卒業した後、編集者・レビュアーとして働いていたようだ。新年度が始まって早々しかも平日に、ずっと探していた本が見つかったという出来事を日記に書くほどに、二階堂奥歯という人物は本に対してかなり熱心な人物だったんだろうとぼんやり想像する。

 

2003年4月1日火曜日、この日は平日だ。

平日だが、二階堂奥歯の日記は「その一」「その二」「その三」「その四」「その五」「その六」「その七」、これに止まらず「その八」「その九」、さらに続き「その一〇」「その一一‐一」と綴られている。私はそのことに気付き、なんだか雲行きが怪しくなってきたと感じた。「その一一‐二」「その一二‐一」「その一二‐二」と日記は続くが、いくら新年度の決意表明にしても長編すぎやしないだろうかと思う。「その一二‐三」の日記の次に、彼女はやっと翌日の4月2日を迎えられたようだ。

しかしその4月2日水曜日の日記のタイトルは「その一」とある。この日は「その七」まで綴られているが、分割されている記事もあることを踏まえるとトータル9回更新されたということなのだと思う。おそらく当時はスマホなど普及していなかったはずなので、勝手な個人的な予想になるが、彼女は自宅で夜中になるまで複数回にわたってブログ記事を投稿したのではないかと考える。もしくは、職場のPCから小分けして投稿していたという可能性も考えられる。しかし、2002年4月8日月曜日の日記から判断する限り、彼女であれば絶対にそんなことはしないのではないかと思う。

 

一投稿あたりの文字数は、今でいうブログ(Googleアドセンス収入を目的として運営されているもの)と比較するとかなり少なく感じられる。

しかし彼女の複数回に及ぶブログ投稿を現代のTwitterで例えるなら、140文字のツイートをかなりの回数にわたって連投しているという状態に置き換えられるのではないかと思う。多くの人はそのようなアカウントのことを、ツイ廃もしくはいわゆる「病み垢(メンタルヘルス系の内容を扱うアカウントの中でも特に思春期の中高生が該当するように思う)」に分類すると思う。事実私も、一晩にかけてそのように連投しているアカウントを見かけると、どうしてもメンタルヘルス系の悩みでも抱えているのだろうかと見なしてしまう。

さて連続して投稿された日記の内容はというと、私が生きてきた中でそのタイトルも作者も聞いたことがないような本からの引用である。また、彼女が数年前に受け取ったと思われる知人からの手紙を引用している投稿も見られる。

ふと私は、おそらく二階堂奥歯は思考の整理のためにブログを使うというやり方をとるタイプの人間ではないだろうかと感じた。というのも私も時たまTwitterをそのような用途に用いるからである。そしてどういうときにその思考の整理をするかというと、それは「ものすごく死にたいが、どう対処していいか方法が見当もつかないとき」である。これについては、もしかするとピンとくる方もいるかもしれない。そのようにしばしば私はTwitterで思考の整理を行う。なぜなら自分自身の脳内の回転及びそれによって生じる思考をインターネットに吐き出さなければ、到底処理しきれない状態に陥っているからだ。

そしてなぜあえてインターネットに吐露するのかというと、リアル社会には私の話を聞いてくれる人が存在しないからだ。私にとって、リアル社会で相手の様子を窺いつつ的確なタイミングでふさわしい言葉で相談を持ちかけるという動作は、極めて難しい。過去に何度も相談時のコミュニケーションに挫折する経験を重ねたことがきっかけで、そのような事態に辿り着いてしまったのではないかと疑っている。

 

彼女の本心は今となってはわからない。そのため私のような人間が、勝手に彼女と自身を重ね合わせ、どこかに類似点があるのではないかとあれこれ想像してしまう。
ふと、彼女の死とはこのような在り方でよかったのだろうかと思わず考えてしまう。死後に自分の作品が残るとは、そういうことなのだと思う。

 

2003年4月に私は中学2年生になり、無事に厨二病を発症した。インターネットに本格的に参入したのは、この時期だったかと記憶している。休み時間には、情報の担当教諭がヤフージオシティーズのアカウント取得を手伝ってくれた。

やはり、当時はまだブログがそこまで一般的なものではなかった。私はまずは無料レンタルスペース(現代でいうレンタルサーバーのようなもの)を契約し個人サイトを作っていた。そしてレンタル掲示板を設置し、同盟バナー(ハッシュタグで繋がる文化など当然存在しなかったため、共通の趣味で繋がる同盟という文化が主流であった)を貼り、繋がっていた。あの頃はそのような時代であった。

私は夜な夜な日記(これはノートに綴った日記であった。というのも夜はインターネットができない家庭環境にあったのだ)を書き、アームカットをするようになっていた。田舎特有の地域性、そこで生じた問題、そして本来の私の性格と一体何が根本的な原因であるのかはわからないが、ちょうど家庭内でもそこそこ大きな出来事が発生し、私は混乱のさなかにあった。

やがて私は個人サイトの別館を作るようになった。それはおそらく現代でいうTwitter複垢サブアカウント)のような類に非常によく似ているのではないかと思う。私はやがて、いかにも「メンヘラポエム(笑)」と晒されそうな文章を拙いながらも公開するようになっていた。

私は日本におけるインターネット内でポエムが馬鹿にされる風潮にいまいち納得がいかないので補足するが、あの頃は「テキストサイト」とカテゴライズされる個人サイトが充実していた。現代詩ともエッセイともいえない、インターネットならではの文章をポートフォリオのようにまとめた個人サイトは、当時かなり多くみられたように思う。
このように、思春期も相まって私は何かと思いつめて過ごす時間が多かった。先に述べたアームカットをするようになったのは、確か半袖を着なくなった秋頃だったかと記憶している。

 

二階堂奥歯の日記は2003年4月26日の土曜日で更新が途絶えている。4月26日というと私の誕生日の翌日なのだが、そんなことなど今はどうでもいい。4月26日の日記は、6回更新されている。「その一」「その二」「その三」、そして「お別れ その一」「お別れ その二」「お別れ その三」という題で投稿されている。

そしてその後に、おそらくこれは投稿時間を設定したことによる自動投稿なのではないかと思うのだが、「最後のお知らせ」が更新されている。その内容は、「2003年4月26日のまだ朝が来る前に自ら命を絶ちました」という旨を報告するものである。

人の死についてあれこれ憶測することが心苦しいが、おそらく夜中のまだ朝が来る前に、最期のまとめとお別れの言葉を、何人かの対象に向けてそれぞれ投稿したのではないかと思う。そして、2001年から更新が続いていた日記をありがとうございましたという言葉で締めくくり、パソコンをシャットダウンしたのかどうかはわからないがきっと彼女のことなら身支度を整えてどこか高い建物へ向かい、そして亡くなったということだと思う。

インターネットで死ぬとはこういうことなのか。

 

3    私にとっての「インターネットがもたらす救済」

断っておくと、私は『八本脚の蝶』のすべてを読破したわけではない。二階堂奥歯が好んだ幻想文学などの専門分野について私は詳しくないため全文の理解が困難であるという言い訳により、私は挫折した。しかし何とも言えないモヤモヤとした疑問が残った。

冒頭で私は「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と述べた。再度ここで明記するが、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化された。
もしかするとインターネットに生きた証を残して自殺するということは最悪な選択肢なのではないかと私は思った。というのも、自らの意志に構わず書籍化され、需要や編集者の熱意があれば数年後に改めて文庫化されるというパターンもあり得るということが今回わかったからである。

果たして彼女はそのようなことを望んでいたのだろうかと、厚かましくも疑問に感じてしまう。世に広まるということは、全く想定していないターゲット層にまで届いてしまうということだ。もしかすると「自殺なんて弱い人間が行うことだ。自殺をする人間は敗者だ」などと主張する層に触れ議論を呼ぶこともあり得るかもしれない。
事実、書籍化された『八本脚の蝶』は私のような読者にまで届いたし、加えて私は今こうしてこのような文章まで書いている。果たして私のこのような行為は許されるものであろうか。

 

文中で軽く触れたが、私にとってTwitterは思考の整理のためのツールとして役立っている。

私は物心ついた頃より、「この子はぼんやりと過ごしているねぇ」と周囲から見なされることが多かった。しかしその一方で、「あなたは随分と真面目だね」などと言われる場面もたびたびあった。その理由について私は、私の脳は必要以上に過剰な思考を行っているためではないかと考えている。

私にはストレスや言いたいことを溜め込む傾向がある。「我慢しちゃだめだよ」とかなりの数の人たちから言われた経験がある。しかし、言える相手に言える範囲で相談をし、さらにTwitterで大量に噴出しても追いつかないのが残念ながら現状なのだ。
私は、Twitterを含むインターネットとは「最後の砦」であると考えている。リアル社会で捨てきれない期待をインターネットに託している。もし私がインターネットに見捨てられたなら、どうにかして確実な方法で間違いなく命を絶つと思う。それほどまでに私はインターネットに縋り付いている。

 

果たしてインターネットは苦しみの最中に置かれた人間にとっての救いとなるのだろうか。

今となっては、様々な利用目的によりインターネットは利用されている。インターネットで事業を興し収入を得る個人も随分と多く見かけるようになった。しかしインターネット上に人が増えたわりに、一向に私はそこで救われることがないように感じる。
私はリアル社会の中で、絶望に絶望を重ねている。冷静に振り返ると自滅して傷ついている場面が多いようにも感じられるが、何らかの救いを求めてインターネットに入り浸っている。もしも私がインターネットに絶望しきってしまったのなら、それは完全に終了の合図だ。「死」以外に何もあり得ない。

インターネットを彷徨っていると、「死ぬ以外の選択肢が無いために死ぬという選択を取った」という人間が多数存在することに気付かされる。
二階堂奥歯が一体どうして「八本脚の蝶」というウェブサイトを立ち上げたのか私にはわからない。もしかすると彼女の日記のどこかで触れられているのかもしれない。  
しかし、私にはそのことについて何時までもこだわっている時間は無い。正直に言うと、小康状態を保ちながら生きていく上では、他人のことを気にかける余裕など皆無なのだ。そして当然なことであるのかもしれないが、健康な人間にとっても同様に、いわゆる「生きづらい人」を気にかける余裕というものは本当に無いらしい。最悪の社会だと思う。

しかしその「最悪な社会」だからこそ、インターネットは救済希望者を受け入れて欲しい。私の意図することをより明確に言い表すなら、「すべての利用者がインターネットを通じて他者を救済する世界であって欲しい」。

 

相変わらず私はぐちぐちと思考の飛躍や感情の上下運動に振り回される様子を、Twitterのしかも公開アカウントで披露している。どうかこのことに何らかの意味があって欲しい。

私は自分自身の人生について、「あまりにも辛く、ほとんどの時間を疲れ果てた状態で過ごし、さらに今にも死にたくなる瞬間がたびたび勃発してしまう」ものであるように感じている。それならば、私の不幸によって同じようにどこかで苦しい思いをしている誰かが救われて欲しい。

「自分自身とよく似たパーソナリティの人物の言動や思考を知ること」は、抱えている苦しみを解消することにかなり役立つのではないかと思う。そのような情報を医療機関で提供してもらう機会が少なく、私はインターネットに救いを求めている。そういうわけで私は毎日欠かさずインターネットを利用している。

私はインターネットヘビーユーザーのまま亡くなっていったすべての人たちを観測したわけではないが、目にした限り彼らは社会に対する憎しみを叫ぶことなどせずにこの世を去っていったように思う。彼らに共通することとしては、後世に何らかの表現方法でアドバイスを残し、そして希望を託して亡くなっていったように感じられる。

私は彼らから希望を託された側として生を続けたいと思う。そしてそれがいつまでの期間になるかはわからないが、インターネットに救いを求めつつも、積極的に自分自身の不幸を開示していこうと考えている。

今日も私は、すべてのインターネット利用者がネットワークを通じて他者を救済する世界線が存在することを願いながら、未完成の世界を徘徊している。

 

【参考文献】
「八本脚の蝶」二階堂奥歯 2006年 ポプラ社

 

 

旅の人が辿り着く街―50万通りの価値観―

私にはこの街の良いところがわからない。

“愛着”ではないと思う。「まぁ全く知らない場所というわけではないから」という、妥協にも似た選び方で、たまたま運良く仕事も見つかったことだし、進学でしばらく離れていたこの街へ戻ってきた。

 

「何が見られるの?」「美味しいごはん屋さんはどこ?」

この街は一応観光地でもあるので、学生時代の知人や仕事で出会った人たちから尋ねられることがある。

観光パンフレットやガイドブックを見れば無難な回答は得られるけれど、私は答えに迷ってしまう。


私にはわからない答えを追い求めて旅の人はこの街に辿り着く。

年間にして50万人もの旅人たちがこの街へやって来るのだという。

私が見つけられずにいる答えを、50万人もの旅人たちは見つけて旅を終えるのだろうか。

 

答えを追い求めて旅をする人たちが羨ましいとも思う。

旅の人たちと一緒に、冷涼な風が通り過ぎていく。

 

 

 

初出:note 旅する日本語エッセイ